伊勢海老のロブ

カメラや家族、旅行と書いていく、日々の備忘録。

父が死にました

どうも、最近ご無沙汰していましたが、とりあえず戻ってきたロブです。

色々とありまして、ブログの更新もままならなかったのですが、とりあえずひと段落したので報告したいと思います。前情報として僕の実家は岐阜県高山市にあることをお伝えしておきます。(この記事に関しては、一部個人の特定を防ぐために改編が行われていることをご了承ください。)

 

ガンでした

私の父は昨年の10月にガンと診断され、余命半年といわれました。最初は血尿が出て急いで病院に行ったそうです。その結果、腎臓ガンだと判明しました。調べてみたんですが、血尿が現れたときはかなり病状が進行しているそうです。

そして最初の病院で余命半年といわれました。

 

告白

しばらくは親族にも秘密にしていて、僕が初めて聞いたのはお正月の時でした。

「俺、ガンなんだよ。」

って。

 

 

外見からは何もわからず、極めて健康に見えていた父でしたが、余命半年といわれた日から、酒とタバコは止めていました。

話を聞いていると、肺にも転移しているのですが、抗ガン剤が効いており経過は極めて良好。副作用も無く食欲旺盛。

医師にも「抗ガン剤の治療をしているのに体重が増える人はまずいない。奇跡の人だ。」と言われていました。

僕も父の見た目や話ぶり、母の対応からもそれほど深刻ではないのかもしれないと思いました。とりあえず、今は落ち着いているし進行も抑えられえているから妻にも言わないでおくということにしました。

 

経過

余命半年と言われてから、翌年。つまり2017年の3月が半年。僕から見れば娘の2歳の誕生日がその時期です。その時になっても特に何もなく、父がガンであることは知らない人からは分からないような状況でした。

 

異変

状況が変わり始めたのはGWあたりからでした。抗ガン剤の治療を続けていたのですが、経過も良好なので本格的に強い抗ガン剤を使ってガンを小さくしていこうとしたときのことです。抗ガン剤によるアレルギー反応がでました。その結果父は生死を彷徨い、医師の判断で抗ガン剤の治療を断念することになりました。抗ガン剤による治療は打ち切りとなりました。今後は放射線療法に切り替えるそうです。しかし、今まで効いていた方法からの変更や新しい治療法への不安はぬぐいきれず、父はナーバスになっていました

加えて父は局部麻酔が効かず、歯を抜くにも全身麻酔しか選択肢はありませんでした。そして高齢であることによる体力的問題、外科的な手術が困難な状況、血栓により血液をサラサラにする薬を服用している状況から手術は不可能となっていました。

そして放射線療法は全く効果をあげませんでした。

 

最後の晩餐

常に入院状態が続く日々の中、6月の最後の週。父は入院先の病院から外泊を認められたので、僕の子供、つまり父から見たら孫なのですが。外泊ができると医師から言われました。それまでの連絡で、

「あと2か月かもしれない。最後に話しをしたい人がいれば会せたほうがいい。」

と母から連絡が来たので急いで実家に帰りました。

ぼくの予想に反して父はすこぶる元気で、僕と妻と娘(父から見たら孫)との4人外食を楽しみました。母から食欲がない時も多いと言われていたのですが、そのような感じは全く見せず、一人前以上の食事を食べていました。しかし、半年前の力強い父の感じはなく、弱々しい感じは否めませんでした。

次の朝、はしゃぎ過ぎたせいで少し熱を出していたのですが、

「孫が来たおかげで、物凄く元気をもらったよ。」

と父が。

「そうか、私のおかげかぁ。」

とうちの娘はしたり顔で話をしていました。

 

衝撃

そのあとは坂を転げ落ちるような感じでした。かつて長嶋茂雄さんが脳梗塞で倒れた後、復帰後急激におじいちゃんになってしまったと思った多い人は多いのではないでしょうか。それと同じように、シャキシャキしゃべりや力強く生きていた父の姿はそこにはもうなく、一人でも立てず、入院生活に突入した父の姿がありました。

父の希望は孫娘にかかっているようで、

「こんな幸せなことは忘れたくないなぁ。」

と孫娘との食事や会話を名残惜しむことを頻繁に言うようになっていました。

週末は毎週実家に帰るようにして僕もたまには看病をしていたのですが・・・。

やがて起きている時間も徐々に減っていき、病室で寝て過ごすような日々が続いていきました。

 

終焉

そして7月某日。いつものように娘(父から見たら孫)と病室に居ました。娘の評判は病院からもとても良く、看護師さんからも大人気でした。体力的にも弱っていた父ですが、孫娘が来る日はとても元気が良く、いつもは食べない食事を張り切って食べ、よくしゃべり、今までと同じように過ごしていました。それ以外の時間帯は全く反応がない日を過ごしていたのですが・・・。

そしてある時。僕が看病のために昼は病院にいたのですが、その日はほとんど寝ていた父の姿ありました。食事も自分で食べられず。最後に話したのはうちの会社と中国の経済状況でした。

その後父は、、、次の日の朝まで寝ていたのですが苦しい以外の言葉しか口にしていませんでした。

看護師さんに聞いた話なのですが、孫娘が病室に訪ねてくる日は、今までの苦しみなど忘れたかのように毎日はしゃいでいたそうです。その日も同様に孫娘が来るとのことではしゃいでいたそうです。それまでは苦しい以外の言葉は発していなかったのですが、孫娘とのハイタッチ・・・。

腕が痛くて曲がりもしなかった右腕を、孫娘が来る日になると動かない腕にリハビリを施し、万全の状態に仕上げ、今まで通りの会話を行う。そして右腕で孫娘とハイタッチを行う。

はたからから見れば。いや、僕から見ても孫娘に残りの全生命力を注いでるその生きざま。

7月のある日の日曜日。父の病室から僕達家族は浜松に帰りました。娘はおじいちゃんにお別れのハイタッチを行い・・・。

その9時間後父は死にました…。

 

本当にあっけなかったです。死んだ実感もわかず、いつの間にか葬儀も終わり、そして日常生活に戻っていく自分。あの出来事はなんだったんだろう。そんなことしか思いつきませんでした。

 

その後

そのご色々あって一人で家で過ごす時間がありました。けれども特に父のことを考えたとか、悲しみに明け暮れたとかそういうことはありませんでした。ただ、何かしたいという気力もわかず、ただただ時間を消費するだけの日々でした。

今でも日常はそんなに変化はありません。そういうものなのかもしれませんが、僕は今でも元気です。